数週間前のこと、アイルランドに長くお住まいのY氏より、大変興味深いお話をお聞きしました。
今から100年近く前、ダブリンと県境を成すカウンティー・ミース(Co. Meath)で、英国人の屋敷に仕えていた日本人青年が、主人の不在中に銃殺されるという事件があったというのです。
1913年(大正2年)に起こったこの事件は、
「邦人給仕銃殺問題-愛蘭に起れる事件」との見出しで、当時の日本の東京朝日新聞にも報じられました。
事件の詳しいいきさつは、
『アイルランド田舎物語』(アリス・テイラー著、新宿書房)の翻訳者・高橋豊子さんが、新宿書房のオンライン・マガジンにて詳しく述べておられます。(→高橋さんのコラムは
こちら)
高橋さんのお話によると、
その青年の名は小西清之介。享年26歳。
1903年より、カウンティー・ミースのClifton Lodgeという屋敷で働き始め、ご主人のジョーンズ夫妻に大変信頼され、終身雇用を約束されていたそうです。小柄で痩せていたものも、柔道の心得のある青年で、地元ではその勇敢ぶりを恐れられていたとか。
事件は、
日ごろから小西青年と折り合いの悪かった、同じ屋敷で働くアイルランド人一家が容疑者として逮捕され裁判になったものも、証拠不十分で容疑者は釈放。
その後の地元のうわさでは、屋敷の敷地内に入ってきた密猟者をとがめて撃たれたとか、地元の独り者の男性の仕業だとか、はたまた、屋敷の主人が小西青年の終身雇用を負担に思い自作自演したとか…。
さまざまな説が流れたものの、結局、当時の不安定な政治・社会情勢(アルスターの反乱、労働闘争、アイルランドの自治運動、第一次世界大戦勃発など)の波に飲まれ、
この事件は迷宮入りしてしまったそうです。
なんだか後味の悪い事件のせいか、小西青年のことはその後あまり語られることがなく忘れ去られていった模様。
高橋さんのコラムによれば、小西青年がアイルランドに来た
1903年は、夏目漱石が2年間のロンドン留学を終えて帰国した年。その年のイギリス行きパスポート発行数はたったの50件、ヨーロッパ在住者は500人弱だったそうです。(小西清之介の記録なし)
そのような時代に、
まだ10代だった小西青年が一体どのような経緯でアイルランドの地へやってきたのか、大変興味深く思います。
一方、
同時期にアイルランドにいた別の日本人、カウンティー・キルデア(Co. Kildare)の飯田さん親子は有名。(「Eida」と表記されているので、もしかしたら「アイダさん」なのかもしれません)
競走馬の飼育をしていたウォーカー氏に仕えていた飯田さん親子は、
1906~10年にキルデアの日本庭園を造園。彼らの功績は今も称えられ、その庭園は地元の名所として親しまれています。
飯田さん親子と小西青年は時期を同じくしてアイルランドに住んでいたことになりますが、同じ日本人同士、彼らは交流があったのでしょうか。彼らの住んでいた地は直線距離でも50~60キロ隔たっているので、交通が不便だったその時代にあっては、会うこともなかったのかもしれません。
Y氏によれば、
カウンティー・ミースのAthboyの墓地には今も小西清之介さんのお墓があるそうです。
事件から100年近くたった今、同じくアイルランドの地に住む一邦人として、近いうちにお墓参りに出かけたいものです。
小西清之介さんのことをさらにご存知の方がいらしたら、お知らせくださると嬉しいです。
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