6日間にわたるスイス、「ハイジ」の聖地巡礼の旅から昨晩戻りました。
激しい雨が降りしきる中、夜遅くにダブリン空港に到着。昨日のダブリンは終日大荒れで、フライトが何便もキャンセルになったそうです。離陸直後に稲妻が光ったせいですぐに降機できず、しばらく機内で待機しなくてはなりませんでしたが、予定通り帰って来られてラッキーでした。
アルムの山に来ています!(ハイジの舞台を訪ねて①)ハイジの村とアルムの山小屋、そしてシュピリの・散歩道へ(ハイジの舞台を訪ねて②)ハイジの泉、そして「山が燃えてる!」(ハイジの舞台を訪ねて③)クララのおばあさまが滞在したラガーツ温泉にて(ハイジの舞台を訪ねて④)…の続き。
滞在最終日は、『ハイジ』の作者ヨハンナ・シュピリが生まれ育ったヒルツェル(Hirzel)を訪ねました。
チューリッヒから20キロほど南東にある、人口約2000人の小さな村。バート・ラガーツから列車とバスで1時間半ほどなので、チューリッヒ空港へ行く途中に立ち寄りました。
「Hirzel, Kirche(ヒルツェル、教会)」というその名も小さな教会のある高台のバス停に到着すると、キョロキョロ探す必要もなく、目の前坂の上に写真で見慣れたシュピリの生家が見えました。

大きなモミの木の右側の家。医者であったシュピリのお父さんの診療所もかねていたので、当時はドクトルハウスと呼ばれていました
早速坂道を上がって生家を訪ねました。シュピリも何度この道を上り下りしたことでしょう。
プライベートな住居のため内部は見ることが出来ませんが、こうして目の前に来られただけで感激。

5階建てのとても大きな家。入り口近くの壁にはヨハンナ・シュピリの生家であることを示す記念プレートがありました

メタ・ホイッサー(1797~1876)、ヨハンナ・シュピリ(1827~1901)の2人の名が。メタはヨハンナの母で、宗教詩人として数多くの作品を残しています。ヨハンナは少女の頃からリベラルな考えの持ち主だったらしく、時に母とぶつかることもあったようですが、結局のところ豊かな文才や深い宗教心は母親ゆずりだったのでしょうね
1827年、ヨハンナ・シュピリは7人兄弟姉妹の4番目としてこの家に生まれました。
父のヨハン・ヤコブ・ホイッサーは外科から精神科まで幅広く診察した医師で、診療所であった自宅には、精神疾患の患者を含むさまざまな患者さんが入院していたそうです。
『ハイジ』には、目の見えないペーターのおばあさん、車椅子のクララ、心を病んでしまうハイジ、それを見抜いたフランクフルトのお医者さん、そして、実は看護の心得がありクララを預かって回復させてしまうおじいさん…といった、さまざまな病気の人、病気を治す人が出てきます。こういった人たちの気持ちを良く理解し、作品に描くことが出来たのは、子どもの頃から身近で見てきたからでしょう。

ここに来ると再びカウベルの音が聞こえ「アルムの山」を思い出しました。ヨハンナはこういうのどかな環境で育ったんですね
ドクトルハウスから見下ろす教会が、ヨハンナの母方の祖父が牧師を務めていた改革派教会。
ヒルツェルはヨハンナの母メタが生まれ育った町であり、父ヨハン・ヤコブは隣り町ホルゲンの出身。無医村だったこの村に医師としてやって来て、牧師の娘のメタと結婚したんですね。

教会手前の小さな建物がバス停。昔はここが村の中心の広場だったのでしょう

教会は1617年建立。中に入ってみたいと思いましたが、扉は閉まっていました。ヨハンナの墓所はチューリッヒですが、今思えば両親のお墓はこの教会に隣接する墓地にあったかもしれません
この教会のすぐ近くにヨハンナが14歳まで通った学校の建物があり、現在そこがヨハンナ・シュピリ博物館(
Johanna Spyri Museum)になっています。
水・土・日の週3日間、それも14~17時のみオープン。開館時間の少し前に着き、入り口近くの石段に腰かけて日向ぼっこしながら待ちました。

素敵な木組みの建物。1827年生まれのヨハンナが子どもの頃に通ったのですから、少なくとも200年は経っていることでしょう

秋バラがきれい。この旅行中、我が家の秋バラが咲き切ってしまうなあ、と残念に思いつつも、代わりにスイスの民家に咲く美しいバラの花をたくさん見ることができました

木組みの風情からちょっと浮いているけど…ここにもいた、「私の」ハイジ!サイコロ型の4面に異なる国で作られたそれぞれ違うハイジのイメージがあり、クルクル回して着せ替えが出来るようになっているんです(笑)
やがてエリザベートさんという博物館員の女性が現れ、扉を開けて、ヴィルコメン!と迎え入れてくれました。

博物館内部。村の小学校の様子を復元しつつ、ヨハンナ・シュピリの生涯にまつわるものや写真が展示されています。写真左に写っている車椅子はクララのもの…ではなくて、父の診療所で使用されたオリジナルだそう
各展示に説明があり、オーディオガイドもあるのですが、ドイツ語オンリー。英語は苦手…と言うエリザベートさんですが、知る限りの英語をドイツ語に混ぜて懸命に説明して下さいました。私も知っているドイツ語を総動員させてなんとか聞き取り、質問をし、説明を読みましたが、ああ、もうちょっとドイツ語力があったらなあ…。
ヨハンナ・シュピリの生涯については、事前にいろいろな本で読んである程度知っていたので、それと照らし合わせておおよそ理解しましたが、理解できていないことも多かったでしょう。ちょっと残念。
(エリザベートさんによると、今後、英語とフランス語の説明が加わる予定があるそう。それが出来たらまた来てね、と言ってくださいました)

医者だったお父さんにちなみ、当時の薬品いろいろ

家族の写真も豊富に展示されていました。左がヨハンナ、中央が妹、右がお母さんのメタ
詩人であった母親メタは多忙で、家をあけることも多かったため、レグラという3歳年上の姉が母親代わりを務めることも多かったと言います。
レグラは優しく心美しい人だったそう。エリザベートさんは、広い心で子どもたちを諭したクララのおばあさんはレグラの性質がモデルとなっているのかもしれませんね、とおっしゃっていました。

昔のドクトルハウスの写真。母屋の後ろはのちに建て増しされたんですね。そして、今ある大きなモミの木がまだない!ヨハンナの時代以降に植えられ、あそこまで大きく育ったのでしょうか

文学少女だったヨハンナの愛読書の紹介も。こちらはホメロスの『オデュッセイア』
ヨハンナが愛読したゲーテの本もありました。『ハイジ』はもともと2巻から成っており、原題は、1巻目が『ハイジの修業時代と遍歴時代』 、2巻目が『ハイジは習ったことを使うことができる』。1巻目が好評だったので、求められて続編が書かれました。(ということは、本来はハイジがアルムの山へ戻ってきて、おじいさんが改心して教会へ通うところでジ・エンドだった!)
ヨハンナが読み切りと意図して書いた1巻目のタイトルは、敬愛するゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』に似せたものですね。
この博物館は1981年、学校の先生の発案で生まれ、当初は村のボランティアにより運営されていたようです。2016年に再設計され、ヨハンナ・シュピリの生涯により焦点を当てた現在のような展示になったそうですが、1階がヨハンナのヒルツェルでの少女時代、2階が結婚してチューリッヒに移り住み、作家になって活躍した時代…と、とても分かりやすくまとめられていて、適度に目で見て楽しめ、説明も過不足なく吟味されていると感じました。

2階の展示には、ヨハンナと関係の深かった人々の写真が。彼らが語ったヨハンナについての言葉とともに展示されているのが面白い。リボンと短冊のオブジェは、学校の遠足で訪れた小学生が作ったそうです

こちらがヨハンナの一人息子ベルンハルトですが、なんと29歳の若さで結核で早世。同じ年に相次いで夫も亡くし、57歳のヨハンナの心情はいったいどんなだったでしょう
息子さんの身体が悪くなっていくのと平行して、ヨハンナは『ハイジ』で名声を得、第2巻の執筆に忙しくなっていました。病床の息子さんはそれが面白くなくて、お母さんはちっともボクを構ってくれない!って「ハイジ」を恨んだのよ、と、エリザベートさんが説明してくれました。
写真に添えられた言葉を見ると、「お母さん、ハイジの第2巻を書くべきじゃなかったよ」という文句。そうか、息子さんはハイジに嫉妬していたのか…。最終的にはお母さんを認めたんだけれどね、とエリザベートさんが付け加えてくれましたが。
そのほか、ヨハンナの交友関係には、夫を通して親交のあったリヒャルト・ワーグナーや、ドイツ語圏では有名なスイス人作家コンラート・マイヤーなども。独り身になった晩年は、ドイツやイタリアなどヨーロッパ各地で長期の休暇を楽しんだりもしたそうです。
44歳で作家デビューし、74歳で亡くなるまでに50編近くの物語を執筆。息子と夫を亡くし、独りになったヨハンナを支えたのは、息子さんに恨み言を言われながらも書き上げた『ハイジ』という夢と勇気を与える物語や、執筆への強い情熱だったのでしょう。
この博物館の展示とエリザベートさんの説明で新たに知ったことのひとつが、『ハイジ』の舞台となったマイエンフェルト周辺とヨハンナとの関わりについて。これまで私が読んできたものには「ハイジ執筆の10年前にマイエンフェルトお隣りのイエニンスに滞在した」とか、「息子の病気療養で訪れたラガーツ温泉で「ハイジ」の着想を得た」などと書かれていたので、ヨハンナが大人になってたまたま訪れて気に入った場所を『ハイジ』の舞台にした…といった印象でした。ところが、もっと若い頃から、それこそ10代の頃からヨハンナは頻繁にその地方を訪れていて、山に友達も多くいたのだそうです。
となると、「アルムの山」はヨハンナの少女の頃からの思い出の地であり、心の故郷だったのかもしれません。そんな大切な場所を『ハイジ』の舞台に選んだのだということが実感できたことは、この博物館での大きな収穫でした。

ヨハンナが実際に書き物をした机。映写されているのはヨハンナ自身の筆跡。美しい筆跡ね、と言うと、達筆すぎて私にも読めないわ、とエリザベートさん

50言語以上に翻訳されているという、世界の「ハイジ」紹介コーナーにコレが!(笑)
2階の小さな一室はライブラリー兼ミュージアムショップとなっていて、世界各国から寄贈された『ハイジ』が書棚にぎっしり詰まっていました。
もちろん、日本のものも。私が小学校の図書館で借りて読んだ初めての『ハイジ』、福音館の矢川澄子さん訳もありました。懐かしい。

そしてこちら、安野光雅さんの表紙が素敵な『ハイジ紀行』は新井満さん&新井紀子さんご夫妻の共著(講談社)。私が好きな「ハイジ」関連本のひとつです!
今回私がヒルツェルに来て、つつがなくシュピリ関連の地をめぐることが出来たのは、この本のおかげです。
イエニンスやローアー・ロッフェルズに関する記述も参考にさせていただきましたし、「シュピリの生涯」の項も大変役立ちました。(注)
この本が最初に出版されたのは1994年。新井さんご夫妻はその前年にハイジの聖地巡礼の旅をしておられます。マイエンフェルトにハイジ村もなく、ハイジホフも増築前だった頃。シュピリ博物館も今のように再設計されるずっと前でした。
奥様の新井紀子さんは「ハイジ」の大ファンで、ヒルツェルに来て感激のあまり泣いてしまうのですが、私はその紀子さんの気持ちを想い、バスが教会のある高台に着いた時にウルウルしてしまいました。
ハイジゆかりの地めぐりの貴重な資料であるだけでなく、ご夫婦仲睦まじくシュピリの足跡をたどる様子がとても微笑ましい。「ハイジ」によって生き方が変わったという紀子さんのお話も印象的です。
表紙絵の安野光雅さんも、そして新井満さんも、一昨年、昨年と立て続けてお亡くなりになってしまいましたね。新井満さんの訃報を知ったとき、厚かましくもこの本を通してすっかり「ハイジ」友達のような気分で親しみを感じていた新井紀子さんのことが真っ先に思い出され、ああ、「ハイジ」の物語やシュピリの生き方が、これからも紀子さんをより支えてくれますように、と願わずにはいられませんでした。
博物館を見学し終わり、まだまだ時間がたっぷりあったので、「シュピリの森(Spyri-Wäldli)」と呼ばれる場所へ行ってみました。
生家を左に曲がった高台にある、子どもの遊び場のある小さな森。

現代のハイジやペーターが木造の遊具で楽しそうに遊んでいました。ここに母メタとヨハンナの名を刻んだ碑があると博物館の説明資料に書かれていたのですが、見つけることが出来ませんでした

森を抜けて、牧草地に沿った散歩道をさらに歩いてみました。少女ヨハンナもこの辺りを駆け回ったことでしょう

高台から見下ろすヒルツェル村
帰りはバスの停留所を2ストップ歩いて丘のふもとからバスに乗りました。列車に乗り継ぎ、チューリッヒ空港へほんの1時間程で到着。
6日間にわたる『ハイジ』ゆかりの地をめぐる旅もついに終了です。「アルムの山」でカウベルの音を聞きながら寝起きした体験はかけがえのないものでした。長年の夢を果たせて感無量、そして、シュピリの『ハイジ』以外の作品をもっと読んでみたいと思いました。日本語訳に訳されているものが少ない上、あってもなかなか手に入りにくいのですが。
今回チューリッヒの中央墓地に眠るシュピリのお墓参りもしようかと考えましたが、大自然をめぐったあとで都会を歩く気になれず、寄らずに帰ってきました。チューリッヒには『ハイジ』の初版本を保存する文書館もあるので、そちらと合わせてまた次回に。
そのほかにこの旅の間に『ハイジ』関連とは別にしたこともいくつかあるので、備忘録としてそちらも折りをみてアップしようと思います。

ヒルツェルで博物館のオープンまで時間があり、お茶でも…と辺りを見回すと、「カフェテリア・シュピリガーデン」なる建物が。ここで思いがけずランチ・セットを食べることになったのですが、あとで調べたところによると、ここは療養所のような施設だったみたいです。現代のドクトルハウス?

スープ、サラダ、メインのチキン・シュニッツェル、バニラムースみたいなデザート…という4コース。見た目は普通ですが、このチキン・シュニッツェル、なかなかおいしかったんです!
(注)以下の3冊も参考にさせていただきました。
『アルプスの少女ハイジ』松永美穂・訳(角川文庫)
『アルプスの少女ハイジ』遠山明子・訳(光文社古典新訳文庫)
『ヨハンナ・シュピリ初期作品集』田中紀峰・訳(夏目書房新社)
【追記】この旅の記録の続き
ヨハンナ・シュピリの生まれ故郷ヒルツェルへ(ハイジの舞台を訪ねて⑤)思いがけず、アルプスに登ってしまった!(ハイジの舞台を訪ねて・番外編)
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コメント
夜行猫
アイルランドの伝統音楽と昔話が好きで、
いつも興味深く読ませていただいております。
え~っと、メタ・ホイッサーの生まれ年ですが、写真に目を凝らして、
更に心の目も動員すると、1797と見えますが、いかがでしょうか?
2022/10/21 URL 編集
naokoguide
目が悪いので、0が9に見えてました(笑)。
早速修正させていただきました。助かりました、ありがとうございます!
アイルランド関連の話でないのに、こんなに長々した文章を読んで下さりありがとうございます。嬉しいです。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします☘
2022/10/21 URL 編集