『赤毛のアン』に出てくる主人公アンの親友ダイアナがアイルランド系かも?…との指摘は以前からあって、アン・シリーズの新訳を手掛けておられる作家・翻訳家の松本侑子さんもそのようにおっしゃっていますよね。
グリンゲーブルズの臨家に住むアンの幼友達で、アンの生涯にわたる「腹心の友」となるダイアナのフルネームはダイアナ・バリー(Diana Barry)。バリー(Barry)はアイルランド起源の名で、アイルランド南部コーク発祥の国民的紅茶ブランド、バリーズ・ティー(Barry's Tea)に代表されるように、南部・南東部出身者に多い姓です。
『赤毛のアン』の舞台は1880年代のカナダ、プリンス・エドワード島。移民国家カナダの建国まもない頃であり、当時のプリンス・エドワード島の人口は、18世紀後半から入植してきたスコットランド、イングランド、アイルランドなどからの移民の子孫中心に構成されていました。マシューやマリラは移民2世、アンやダイアナは移民3世といったところでしょうか。
主な登場人物は作者モンゴメリと同じスコットランド系として描かれ、アンが暮らすアヴァンリー村の人々はスコットランドで主流の長老派教会に通っています。アヴォンリー村はプチ・スコットランドさながらのコミュニティーといった設定。
とは言え、アイルランド移民はスコットランド移民より数十年遅れてプリンス・エドワード島に根をおろしましたものの、19世紀後半には島の住民の少なくとも4分の一がアイルランド系だったと言いますから、アヴォンリー村にもアイルランド移民の子孫がいた可能性は大いにあると言えるでしょう。
ただ、これだけではイマイチ決め手に欠ける...。アイルランド系であればカトリック教会へ行くはずですが、ダイアナが通うのはみなと同じ長老派教会ですし、ご先祖のアイリッシュ訛りを踏襲している様子もありませんし…。
入念に調査される松本侑子さんもダイアナ=アイルランド系を押しておられることですし、私もそう思いたいのは山々ですが、う~ん…。バリーズ・ティーをすすりながら、ダイアナ=アイリッシュと確信できるような事柄がもっとほかにないものか…と何度頭をグルグルさせたことか。
昨年今年と「『赤毛のアン』とアイルランド」をテーマに講演を何度かさせていただきましたが、そこでもこの件については確証が持てず、触れずに終わっていました。
ところが先日、英米小説・児童文学専門の大学の先生である菱田信彦さんが書かれた「
快読『赤毛のアン』」(彩流社)という本を読んで目からウロコ。これまで私が思ってもみなかった視点から、ダイアナ=アイリッシュ説が詳しく考察されていたのです!

2014年出版の「快読『赤毛のアン』」、こんなに深い内容とはつゆ知らず、これまでスルーしていたことが悔やまれる!別のアン関連書に引用されているのを見て遅ればせながら取り寄せて読んだところ、ダイアナの件のほかにも興味深い考察が満載、嬉しい驚きに満ちた一冊でした!
菱田さんが指摘しておられる点はいくつかあるのですが、私の目から思い切りウロコがボロリ!と落ちたのはほかでもない、ダイアナの容姿の特徴について。
ダイアナは黒髪に黒い瞳、バラ色の頬をした美しい少女で、村には美しい子はほかにもいるけれど、黒い髪と黒い瞳の少女は彼女をおいてほかにいません。アンの赤毛を「にんじん」とからかったギルバートが、ダイアナの黒髪を「カラス」と言ったように、それほどまで黒さが際立っていたのです。
そのカラス並みの黒さこそが、ダイアナをアイルランド系と考える根拠になるというのです。菱田さんは、ダイアナが「ブラック・アイリッシュ(Black Irish)」なのでは、と指摘しておられるのでした。
「ブラック・アイリッシュ」とは黒髪&黒目のアイルランド人を差す表現だそうですが、私は初耳でした。アイルランド国内でより、移民先などの国外で主に用いられるようです。
世間一般のアイルランド人のイメージは、どちらかと言えば赤毛でそばかすだらけのアンの方ではないでしょうか。まさか黒髪のダイアナの方が「アイリッシュ」な容姿だったなんて!
言われてみれば確かに、アイルランド人の中にはまるで東洋人のような黒髪&黒目の人がときどきいます。
一般的なアイルランド人の髪の色はブルネット(栗色)やブロンド(金髪)で、瞳の色はブルー。ジンジャー(赤毛)や、グレーやグリーンの瞳の人もいますが、髪や瞳が「黒」という人はかなり少数派で、それだけにエキゾチックな存在。
著名人を例に挙げると、俳優のコリン・ファレルや歌手のエンヤが「ブラック・アイリッシュ」でしょうか。
「ブラック・アイリッシュ」の起源については諸説あるようで、1500年代以降にアイルランドに入ってきたスペイン人の置き土産だと信じている人が多いよう。知人に黒髪・黒目のゴールウェイ出身の女性がいますが、彼女も「私の先祖はスパニッシュなの」と言っています。港町ゴールウェイはかつてスペインとの貿易が盛んで、訪れたスペイン人が地元のアイルランド人と混血する事例が多々あったと言います。
また、1588年、スペインの無敵艦隊がイギリスに破れ、帰り道にアイルランド沖で難破。上陸してそのまま居着いたスペイン人の子孫の影響…とも言われますが、それについては近年歴史家が否定しており、実際には海で遭難して帰らぬ人になったか、地元の部族に殺害されてほとんど誰も残らなかったそうです。
そして、個人的に信ぴょう性が高いと感じるのは、「ブラック・アイリッシュ」は古代ケルトの民の遺産であるとする説。
一般にケルト人の見た目は「dark(肌が黒く髪も目も黒っぽい)」とは対局をなす「fair(肌が白く金髪で目が青い)」だとイメージされがちですが、古代ヨーロッパでローマ人と戦ったケルトの人々は、敵を威圧するために見た目を恐ろしく装っていました。髪の毛を伸ばして脱色し、石膏で固めて逆立て、肌にはブルーの染料を塗りたくっていたので、ぱっと見は「fair」に見えたかもしれません。でもその下の髪色や肌色は実は「dark」で、黒髪だったのかも!
ブロンドの髪やブルーの瞳といった現代のアイルランド人に多く見られる「fair」な特徴は、そもそもケルト起源ではなく、ケルトから1000年以上遅れてこの島にやって来た北欧のバイキングの影響によるものなのです。
そのほか、ダイアナ=アイルランド系と考える根拠として菱田さんが挙げているのが、ダイアナの母バリー夫人が話す英語と、ご近所に対して一歩距離を置くかのようなかしこまった態度。
一見アヴァンリー村のほかの家より格上かのように見えるバリー家ですが、実は成金だったのかも?(アンを可愛がる独り者の老女ジョセフィン・バリーさんも!)
アイルランド系だからってバカにされてたまるもんか!という気負いから、バリー夫人が慇懃な振る舞いや言葉遣いをするに至った…という菱田さんの考察は見事に的を得ていると感じました。
イチゴ水のあの事件についても、バリー夫人があんなに頑なにアンを許さなかったのは、アルコールへの強い反発心が根底にあったと考えると合点がいきます。アイルランド人=酒飲みのイメージへのコンプレックスの裏返しだったんですね。
詳しくは「快読『赤毛のアン』」をぜひ。
ちなみに、ダイアナがアイルランド系だとしたらなぜカトリック教会に通わなかったの?という疑問についてですが、答えは簡単。アヴォンリーの舞台とされるキャヴェンディッシュには、当時カトリック教会がなかったのだそうです!
余談となりますが、プリンス・エドワード島のアイルランド系の方にこんなことを聞いたことがあります。モンゴメリがキャヴェンディッシュに暮らしていた頃、その方のご先祖はモンゴメリのご近所にお住まいだったにも関わらず、バックグランドの違いからかほとんど交流がなかったようだ、と。
入植初期に近ければ近いほど、アイルランド系はアイルランド系、スコットランド系はスコットランド系で固まりがちで、そこには見えない壁があったものと思われます。
そう考えるとバリー家は、スコットランドの海に浮かぶアイルランド孤島として、人知れず葛藤を抱えて頑張っていたのかもしれません。移民3世である(←と思われる)スコットランド系のアンとアイルランド系のダイアナが手をつなぐことで、その壁が取り払われたと考えると、2人の友情がよりいっそう美しく意義深く感じられます。
(菱田さんのご著書にも、もっと的確で説得力ある表現で同様のことが書かれていた気がします。そして、アンはイングランド系かも、とも)
いずれにしても、ダイアナはアイルランド系かも、もしそうだったら嬉しいなあ…という、長年胸の中でモヤモヤしていた不確定な推測と期待が、この本のおかげで晴れてスッキリしました。
ダイアナの容姿こそがアイリッシュだったとは。これだけ長い間アン・ファンでいながら、まったくの盲点だったなあ。
【参考記事】
‐
Who were the Black Irish, and what is their story?(Irish Central)
‐
THE BLACK IRISH(Ancient Order of Hibernians) など
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コメント
miwako
あちこちアンのネタは面白いし、著者の博識には感動するし。
私はミス・ジョセフィン・バリーに関する考察にビックリ&ツボでした。
なぜお金持ち?位にしか考えていなかったので。今回その考察を読んでアンという名の少女のドラマに登場した新しいミス・ジョセフィン・バリーの姿に納得でした。
今後もバリー家、大注目です(^O^)
2022/10/05 URL 編集
naokoguide
miwakoちゃんが読んだって書いてるのを見て思い出し、取り寄せて読みました!きかっけを作ってくれてありがとう♪
ジョセフィンおばさんについては、別途タイトル立ててブログに書きたいくらい。
そうそう、つながりましたよね、Anne with an Eの新ミス・ジョセフィン・バリーに!
アンの血筋とか、付加疑問文連発グセについても、目からウロコ落ちまくり。
さすが英文・英文学の専門家だなあ、プロは目のつけどころがスゴイ!と感動しました。
それにしてもモンゴメリは、一般社会からはみ出している人たちの描き方が素晴らしいですよね。
もと孤児のアンだけでなく、別の意味でダイアナもみんなと「違う」バックグランドの持ち主だったんだ、その2人が手をつなぐ物語でもあったのね、と新たな視点を得ることが出来ました♪
村岡さんの訳抜けについても、赤松先生説に続いて、なるほど~。
ああ、話し出すと止まらない~💓
2022/10/05 URL 編集
Yama
昨日今日、『快読・赤毛のアン』を再再読していたところでした。
直子さんと同じく、うろこが身体のあちこちから落ちてしまって、これでは私、人魚になりそう。
筆者の歴史、地理、宗教などの知識をもとに解読される内容にとても説得力がありますね。農業を主にする社会において、政治力として働く宗教についての解釈が冴えて、(子供のころからの)疑問が溶けていくさまはそれこそ「快感」。
あることを起点に考え、ほかの何かと対照しその特徴を際立たせる。解された問題が重なり合いながら大きく流れていく。簡潔でやさしい言葉を遣ってアヴォンリー村における比較文化論に発展していく。この過程を楽しめました。難しいことをやさしく表現するのはとても難しいことです。
心底驚いたのは、村岡花子はアンを翻訳したのではなくて、翻訳しつつ創作も行なったのだとの記述でした。自分がとらえたイメージを読者に伝えるために訳し、正確さよりも良質な物語を紹介するため訳す。
なるほど、ひとりひとりが村岡訳を受け取り、胸の中に自分なりのアンを創作してきたからこそ、村岡訳が受け入れられ続けたのでしょう。
ああ、何回読んでも面白い!
2022/10/05 URL 編集
naokoguide
同じ想いを共有出来て嬉しいです!
Yamaさんのコメントを読みながら、そうそう、その通り~とますますウロコが剥げそうでした。
単なる表面的な解説ではなく、深い知識に根付いたわき出るような考察が素晴らしいですよね。英文の読解もプロでいらっしゃるので、各省ごとのツッコミが非常に説得力があり、感激でした。
私もこういう知性の持ち主になりたい!
楽しく快読できる書でありながら、出所元の文献がきちんとリストアップされているのも素晴らしいですよね。
思わず、この方の別の本も読みたくなって調べたら、つい先日ハリー・ポッターの快読が出版されたばかり。読みたいけれど、私、ハリー・ポッターってちゃんと読んでないんですよね。まずそれからか…とまた宿題が出来てしまいました!
2022/10/05 URL 編集