先日、
モンゴメリ作『エミリー(Emily of New Moon)』について想うことをつづった中で、『エミリー』にはモンゴメリ作品における「ケルト性」が存分に発揮されているとお話しました。
そんなことも含めて、作中の「アイルランド・ネタ」をピックアップして何回かに分けてご紹介しようと思います。
(引用はすべて『エミリー』モンゴメリ作、神鳥統夫訳、偕成社文庫より)
アン・シリーズを含むモンゴメリ作品には「妖精」の言及が多く見られますが、後年の作品になるほどに、比喩や空想の域を超えて妖精そのものの「気配」や「実体」がより強くなるような気がします。
『エミリー』は1923年、モンゴメリ49歳の歳に出版された作品ですが(『赤毛のアン』出版の15年後)、主人公のエミリー自身が「妖精の国の一族」(第1章)とされ、事あるごとに彼女の耳が少しとがっていることが妖精族の証として引き合いに出されるのです。
「耳がとがっているね。」神父はぞくぞくするような声でささやいた。「耳がとがっている!ひと目見た瞬間、妖精の国からまっすぐやってきたことがわかったよ。おすわり、妖精さん ― 妖精がすわるならの話だが ― さあ、すわって、ティタニアの庭の最新ニュースをおしえておくれ」(第18章)…と、当たり前のようにエミリーを妖精として迎え入れたのは、ほかならぬアイルランド人のカッシディ神父でした。
隣人のアイルランド人の「のっぼのジョン」(姓はサリヴァン)が木を切り倒すと聞いて心を痛めるエミリー。モンゴメリ作品のほかの主人公同様、エミリーも樹木崇拝がことさら強く、このことも極めてケルト的です。
同じアイルランド人の神父さんならジョンを説得できるかもしれない、と意を決してお願いに来たエミリーに、(妖精にとって)「大切な緑の森を守らなければならない」から、エミリーが妖精族の一員であることに免じてジョンを説得してあげましょう、と約束するカッシディ神父は、妖精界の掟を心得た人でした。
もしもこれがエミリーでなくアンだったら、「うわ~、神父様もヨセフを知る一族ね!心の友がまたひとり増えたわ」と言って、抱き着いて喜びそうですね。(エミリーはアンのように感情をすぐさま出すひと懐っこいタイプではないので)
ここでカッシディ神父が言う「妖精」は、日本語訳は一貫して「妖精」ですが、原文では「fairy(フェアリー)」、「elf(エルフ)」、「Green Folks(緑の人々)」などと呼び名が変えられています。
妖精一般のことは「フェアリー」ですが、エミリーのことは「エルフ」。「小さな妖精さん」といったニュアンスでしょうか。そして、さらに話が弾んでくると、ついには「leprechaun(レプラコーン)」とも呼び変えているのです。
今手元においしい飲み物も食べ物もないなんてじつに残念だ ― 妖精が食べるようなものがなにもないとは ― 月の光を受ける皿一枚ない。しかしわたしの母は、プリンス・エドワード島の全女性のなかでいちばんおいしいプラムケーキが焼けるんだよ。それに、おいしいクリームのとれる牝牛も一頭いることだし。ちょっとだけここで待っていなさい。ビー(←神父の飼い猫)ならこわがらなくてだいじょうぶ。ビーはやさしいプロテスタントの子どもを食べることもあるけれど、かわいい妖精(原文:leprechauns)にはけっして手をださないから。(第18章)
レプラコーンはアイルランドの妖精代表。職業は妖精界の靴屋で、靴を作ったり直したりして貯めた金貨を壺に入れて人間に盗られないよう虹のふもとに隠す習性あり。やっぱり耳がとがっていますね!(笑)(いつかのセントパトリックスデーの頃の装飾より)
アイルランド移民の多い北米大陸では、アイルランドの妖精と言ったらレプラコーンというのが共通概念であり、エミリーも読者も「レプラコーン=ちょっとお茶目な緑色の服を着た妖精」を即座に思い浮かべたはず。
フェアリーでもエルフでもなく、エミリーを特別にレプラコーン扱いしたのは、神父がエミリーを「この子は特別な子だ」と目をかけ、気に入ったからでしょう。「そなたがプロテスタントの子どもでもかまわん、我が故郷の妖精レプラコーンと称せよう」…みたいな感じ(笑)。
そういえば、『銀の森のパット(Pat of Silver Bush)』でもアイルランド人のジュディばあやが秘蔵っ子のパットを妖精扱いしていますね。パットが変り者なのは、生まれたその日にレプラコーンが小さな緑色の棘で触ったからだ、と。
ちなみに原文では、ジュディほどではないけれど、カッシディ神父が話す英語もちゃんとアイルランド訛りに書かれています。
このカッシディ神父とのエピソードは『エミリー』の中でも私がとくに好きなシーンで、神父は妖精ごっこにノリノリなのに、今わたし大きな悩みをかかえてるんだからそれどころじゃないわ、とちょっぴり冷めた態度のエミリーがエミリーらしくて笑える(笑)。
そして、作家を目指して詩や物語を書いていることを知った神父が、エミリーを将来の女流作家のタマゴとして扱い、「続けなさい」と励ましの言葉をかけるところも好き。同居するおばさんたちに文筆修行を理解してもらえない不憫な子どもであるエミリーにとって、どれほど大きな希望となったことか!
作者モンゴメリはカナダのプリンスエドワード島のスコットランド系の長老派コミュニティーで育ち、当時島に大勢いたアイルランド人とはあまり交流がなかったと聞きます。(プリンス・エドワード島に住む、ご先祖がモンゴメリのご近所さんだったというアイルランド系の方に聞きました)
モンゴメリも子どもの頃はエミリーのように、カトリックの神父さんの存在をとてもミステリアスに感じていたのでしょうね。やがて結婚してオンタリオ州に移り住んでからは、夫が牧師を務める教会に宗派違いの人たちも通って来ていて、アイルランド人とも交流があったようです。晩年の作品でジュディばあやのようなリアルなアイルランド人が描けたのは、そんなことも影響しているのかなあ、と思ったりするのでした。

どこからともなく妖精が顔を出しそうな気配むんむんの森…カウンティ・キルケニーのどこか(2017年撮影)
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