『アンの娘リラ』に出てくるアイルランド・ネタ、第5弾です。
(これまでの4回)
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① 「アイルランド人のノミ」とは?→
② 「ティペラリーの歌」と第一次世界大戦→
③ 泣き妖精バンシー→
④ ルシタニア号の悲劇アイルランドは2つの公用語を持つ国で、第一公用語が母国語のアイルランド語、第二公用語が支配国によりもたらされた英語です。
アイルランド語はゲール語ともいい、スコットランドやウェールズ、北フランスなどケルト人が住み着いた土地の母国語。発音も綴りも(おそらく文法も)地域による差が大きいので、近年はアイルランド語、スコットランド語、ウェールズ語、ブリトン語とそれぞれ区別して呼ばれることの方が多いように思います。
その中でアイルランド語とスコットランド語は類似していますが、ほかの2つはだいぶ異なっているようです。
ゲール語はアイルランドやスコットランドからの移民により北米大陸へも伝えられ、移民初期には英語とちゃんぽんで話されたのではないかと思います。
ゲール語の単語が英語に混ざっていったような例もあり、有名な話は「さようなら」を意味する「ソーロング(=so long)」という表現。アイルランド語の「さようなら」は「スローン(=slán)」と言いますが、アイルランド移民たちが別れ際にそう言い合うのをアメリカ人が聞き違えて、「スローン→ソーロング」になったそうです。
スコットランドではそもそも、移民初期の頃から英語の普及率はアイルランドより高かったですし、移民みながゲール語しか話せなかったわけではありませんでしたから、移民先での普及は一時的なものであったでしょう。世代を経るごとに話者は減っていったのでしょうが、『アンの娘リラ(Rilla of Ingleside)』(以下、『リラ』)には一か所だけ言及があります。
『リラ』は第一次世界大戦下を時代背景とする物語。戦争が始まって2年経ったある日、アン一家の家政婦スーザンの口を借りてゲール語が話題にのぼるのです。
あんたはアリステア・マッカラムの息子で、上グレン出身のロデリックの話を聞きましたかね?今ドイツの捕虜になっていて先週、母親のところへ手紙が届いたそうですがね。手紙には待遇はごく親切だし、捕虜はみな食物がたっぷりあてがわれるとかなんだとかなにもかも結構ずくめのことばかり書いてあったんですよ。ところが、名前を書くとき、ロデリックとマッカラムの真ん中にゲール語で『みんな嘘だ』という意味の言葉を二つ書き入れたんです。それをドイツ人の検閲官はゲール語がわからないもんで、それもロディの名前の一部だと思い、通してしまったわけですよ。騙されたとは夢にも知らずにね。
(『リラ』22章、村岡花子訳、新潮文庫)ちなみにこの一節は、
「ティパレアリの歌」の部分同様、私の手元にあるアメリカ版『リラ』からはそっくり抜け落ちています。(出版当時の政治的な事情でしょうか)
この「みんな嘘だ」は、ゲール語2単語でどう言うのでしょう。辞書を駆使して調べてみると、アイルランドのゲール語では「bréag gach」(ブジェーグ・ガク?)、スコットランドのゲール語ではたぶん「breug aathin」(読み方わからず)…?
ゲール語は後置修飾なので、「bréag/breug」が「嘘」で、「gach/aathin」が「全部、すべて」ですが、スコットランド語の「aathin」は形容詞ではなく代名詞のようなので、ほかにもっと適切な言い方があるのではないかと思います。あいにくアイルランド語の辞書しか持っておらず、電子でもスコットランド語情報が少ないのでこれ以上わかりませんでした。(詳しい方いたら教えてください!)
マッカラムさんは名前からしてスコットランド系と思われますので(ファーストネームも『キャンディ・キャンディ』のアリステアと同じ、スコットランドに多い名!)、使ったのはスコットランドのゲール語でしょう。とすると、「Roderick Breug Aathin MacCallum(またはMcCallum)」などと名を記したのでしょうか。
すっかり名前の中に同化していて、これではドイツ人が名前の一部と思うのも納得(笑)。
ゲール語はドイツ語とはもちろんのこと、英語とも、文法も発音も全く異なる言語です。アイルランド人がよく言うことには、その昔、アメリカやカナダへ移民したアイルランド人が、職場などでの不平不満をアメリカ人に聞かれないようゲール語(アイルランド語)で言った…という話。
聞かれたくないこと、知られたくないことを仲間うちだけで伝えあう、秘密の暗号みたい。戦時中にもそのように重宝したのですね。
モンゴメリは実生活の中で目にしたり、耳にしたさまざまなエピソードをメモに残し、物語の素材としていました。日記や書簡集を読むと、『リラ』に出てくる犬がひきつけを起こす話や、リラが映画館で窮地に陥ったヒロインにすっかり感情移入して叫んでしまう話はすべて実話であることが分かります。
そもそもアンが孤児院から男の子と間違って連れてこられたというエピソードも、モンゴメリの古いメモから掘り起こされたものでした。
ですからこのゲール語による秘密の伝言(暴露?)のエピソードも、作者が人づて聞いた実話である可能性が高いのではないかと思います。
ところで、アンと周辺の人たちがゲール語を話すようなシーンはシリーズ全編を通してこの場面以外思い当たりませんが、モンゴメリが『リラ』のあとに書いたエミリーという少女を主人公とするシリーズには、第2巻の『エミリーはのぼる(Emily Climbs)』に、ゲール語を話すマッキンタイヤさんという老女が出てきます。
エミリーがゲール語を解さないため英語で昔話をしてくれるのですが、本当は「英語ではあまり感じが出ない」のでゲール語で話したかった…というスコットランド出身のおばあさん。エミリーが朝目覚めるとマッキンタイヤおばあさんがそこにいた…という出会い方をするのですが、実はその眠りの間にエミリーは霊媒体質を発揮させて幼児行方不明事件を解決していました!
ゲール語というマジカルな言語を操る老女の存在とあいまって、ケルトの血筋が出現したかような怪しさ漂うシーンです。
モンゴメリ自身はスコットランド移民5世くらいでゲール語の話者ではなかったはずですが、1920年代、40代後半~50代前半という年齢で書いた『リラ』とエミリー・シリーズに続けざまに出てくることから、その当時、先祖のルーツの一環として関心を寄せていたのではないかと思います。
そして、スコットランドやアイルランドから伝えられたゲール語文化が、20世紀初頭のプリンス・エドワード島において多少なりとも存続していたことが『リラ』や『エミリーはのぼる』からうかがい知れるということが、私にとってはなんとも興味深いことです。
ゲール語は移民先で絶えていっただけでなく、本国アイルランド、スコットランドでも、母国語であるにもかかわらず今や少数派の言語となっています。
それでもアイルランドは、ほかのゲール語圏と比べて母国語復興が盛んな方で、日常的に話して暮らしている人は全人口の2%ほどですが、学校教育の中で小学1年生から学ぶ科目とされているので、統計では全人口の50%が理解するとされています。

アイルランド語(ゲール語)を話す地域は「ゲールタクト」と呼ばれ、文化も人も含めて国の保護指定区域。この写真はアラン諸島のイニシア島ですが、各ゲールタクトに同様にサインあり
私もイブニング・クラスに通って勉強したことがあり、基本的な会話や単語、読み方、文法の初歩は学びましたが、日常会話を理解するレベルまで続けられませんでした。なので、意味がわからないことも手伝って、その響きはなにやら呪文のよう。聞いているだけでなんだか魔法にかけられてしまいそうな気になります!
こんな映像がありました。1985年のアイルランド西海岸のメイヨー県(County Mayo)、当時はまだアイルランド語しか話さない(英語は話さない)という人がいて、彼の語りを巨大なカセットレコーダーと思われる機械で録音しています。アイルランド語の響きを聴きたい方、当時のアイルランドの田舎の様子と共にどうぞ
これで『リラ』に出てくるアイルランド・ネタは最終にしようかと思いましたが、もうひとつ出てきましたので、後日またご紹介するかもしれません。
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コメント
アンナム
実に興味深かったです。私は「エミリーシリーズ」大好きでした。また読むきっかけを下さりありがとう!
2020/06/14 URL 編集
naokoguide
ゲール語といえばエミリーだ!って思って、私もまたエミリー読み返してます。「夢の家」もあって、あっちこっち行ったり来たり、なんですが(笑)
私はアイルランドやケルトつながりだけど、皆さんそれぞれが、アンから始まる物語があると思うんですよね。誰もが物語を紡げるモンゴメリ作品、あらためて私たちスゴイものに出会ったのね~って感激しています。
2020/06/14 URL 編集
Yama
この「50%の人が理解する」ということ、驚くべき数字ですね。人種としての外観が似ていることも異文化理解の助けになっているのかもしれません。
宗主国スペインに支配されていた南米の国々で、これはありえない数字ですから。ピジンからクレオール語へ変遷し、母語をスペイン語に飲み込まれてしまった現在、先住民の言語(ケチュア語ほか)に敬意を払うのはひょっとして研究者だけかもしれません。
日本のアイヌ語も同じ運命を辿りそうですが、この夏北海道白老町に民族共生象徴空間・ウポポイが開業します。国立アイヌ民族博物館、国立民族共生公園、慰霊施設などからなるアイヌ文化復興・創造の拠点です。
8月に北海道行きを予定しているので、ぜひ訪問してみます。
2020/06/22 URL 編集
naokoguide
人種としての外観が似ていることが異文化理解の助けになっているのかも、というYamaさんの考察、興味深いです。
確かにヨーロッパ人は先祖の系統が違っても肌の色はみな同じですし、肌色は同じなのに髪や目の色はそれぞれ違う。そもそもが多様性を受け入れやすい外観なのかもしれないと思いました。
ゲール語圏の中でも、スコットランドなどに比べアイルランドは母国語がより復興しています。やはり島だから、そしてやはり独立しているからかもしれません。
民族意識はスコットランドの方が強いかもしれないけれど、政策としてはイングランドにくっついていますから。
アイヌ語は私も興味を持っています。数年前、家族で北海道へ旅行したとき、ホテルにアイヌの語り部の方が来てお話し会があり魅せられました。またYamaさんのブログに旅行記が書かれることを楽しみにしています!
2020/06/22 URL 編集