先日友人のディヴィッドとクリスティーンと話していて、なぜか日本のミツビシ(三菱)のマークの話になり、「スリー・タイヤモンドなんだよね」って話をしていたときのこと。
日本の鉛筆にはあのマークがついてるんだよ、って言おうとしたら、「鉛筆」の英単語が出てこなかった!
「何って言うんだっけ、アレ、バイロー(Biro、ボールペンのこと)じゃなくて、消せるペン!」
って説明して、2人が「ペンシル(pencil)のこと?」ってわかってくれたのですが、なんと中学1年生レベルの英単語を私、忘れちゃったんだ!と我ながらびっくりしたのでした。
このことで思ったのは、言語はやはり環境で身につくものなんだ、ってこと。
鉛筆ってもはや買わないし、使わないので、私のアイルランドでの生活言語から完全に消滅していたわけです。というか、もしかすると「ペンシル」という英単語は、学校で習ったものの実生活では一度も口にしたことのないもののひとつかもしれない。
(「鉛筆」という日本語がすぐ出てくるのは、日本語(だけ)を話して生きていた子ども時代の必需品だったから)
脳は環境に合わせて言語を使い分けているみたいです。
数年前、仕事でアイルランドに住んでいる日本人のサーファーの方がいて、海でよく会いました。
私はサーフィンをアイルランドで始めたので、サーフィンにまつわる会話や海でのコミュニケーションはすべて英語。そこへ日本語を話すサーファーがポンと飛び込んできて、脳が混乱したみたいです。
隣りで波待ちしている彼らに何か話そうとしたとき、日本語がひと言も出てきませんでした。アイルランドの海という環境で、それまで一度も日本語で考えたり話したりしたことがなかったから。
今になって思うのは、中学や高校で当時私たちが受けた英語教育は、外国語の習得というより、翻訳または通訳の勉強に近かったかも、ということ。日本にあるものを英語で言ったり、日本語で考えたことを英語にしていただけですものね。
個人的にはゲーム感覚で楽しかったし、そういう勉強も好きだったのですが、高校生のときに私が燃えていたのは英文和訳だった。今思えばそれは、いかにいい日本語に訳すか、ってことで英語習得とはちょっと違ったような(笑)。
英語を英語のままで理解して読んだり話したりするのは学校の勉強とはまったく別のことで、それをするようになったのは卒業後でした。言語は環境…ということを実感するようになったのもそれから。
それにしても「ペンシル」は忘れても、「ハミングバード(hummingbird=ハチドリ)」はいつまでも覚えているから可笑しい(笑)。
中学校の教科書にその単語が出てきたとき、教科書に登場させるほど大切なのかしら…って思ったものです。ハチドリなんて見たことも聞いたこともなかったし、日本にはめったにいないみたいだし。ほかにもっと習うべき英単語があるんじゃないかしら、って。
ところが、のちに添乗員として中南米へよく行くようになり、メキシコかヴァテマラかで初めてハチドリを見たとき、「これが教科書にあったハミングバードか!」といたく感激したのです。机の上での学習が立体的になった!…と。
些細な経験ですが、それが外国語習得の始まりかもしれないなあ、と近ごろ思うのです。単語や表現を別言語に変換する作業ではなくて、実体験や気持ちに重ねていくような、そんなこと。
今日のダブリンは26度まで気温が上がり、夜8時前ですが外はまだまだ陽が高い。暑くてぼぉーっとしている中でのつぶやきでした♪

今日もジョギング中、木陰で休憩。草の上にびっしり咲いた小さなデイジーが可愛い
- 関連記事
-
コメント