『アンの娘リラ』に出てくるアイルランド・ネタ① 「アイルランド人のノミ」とは?…に続き、第2弾です。
この話は2003年5月、なんと今から17年も前になりますが、私が中学生の頃から入っている『赤のアン』の会の通信に投稿し、メンバーの中で原書を調べ合ったりして盛り上がった話題です。
当時の投稿エッセイをもとに、『アンの娘リラ(Rilla of Ingleside)』に出てくる「ティペラリーの歌」について考察します。
第一次世界大戦下のカナダの片田舎で繰り広げられる人々の暮らしや心情を描いた『アンの娘リラ』では、アンの3人の息子たちも次々に義勇兵に志願して戦場へ赴いていきます。
長男のジェムが出征する時、大勢の人が駅に見送りにやって来て思い思いのことをつぶやく場面があり、その中にこんな一節があります。
「ティパレアリへの道遠し」と、リック・マックアリスターが鼻唄をうたった。
(『アンの娘リラ』村岡花子訳、新潮文庫、第6章より)
(原文)"'It's a long, long way to Tipperary,'" hummed Rick MacAllister.※ちなみにこの一節があるのはイギリス版で、アメリカ版では削除されています。『リラ』のアメリカ版は政治的な言及などの多くが削除されているようです
これはアイルランドで今も歌い継がれる古い歌で、「ティパレアリ(Tipperary)」なる場所はアイルランドに実在します。南部にある人口5000人ほどの町の名であり、その町を含む県(county)の名。ゴールデン・ベイルと呼ばれる豊かな牧草地が広がり、アイルランドの特産物サイダー(シードル)になるリンゴの産地であり、古城や修道院の廃墟が数多く残り、アイルランド国技のひとつハーリングが盛んな地域。アメリカのロナルド・レーガン大統領の曽祖父の出身地もここティパレアリ県です。

ザ・ヴィ―(The Vee, Co. Tipperary)よりゴールデン・ベイルを臨む(2019年7月撮影)

12~14世紀建立の聖堂廃墟がそびえるロック・オヴ・キャシェル(Rock of Cashel, Co. Tipperary)(2012年8月撮影)
歌のサビの「ティパレアリへの道遠し」(It's a Long Way to Tipperary)をタイトルとするこの歌は、日本では「遥かなティペラリー」とか「ティペラリーの歌(Tipperary Song)」、「チッペラリーの歌」などと呼ばれるようです。
私はこの歌に個人的な思い出が少々あり、ちょうどこの原稿を『アン』の会の通信に投稿した頃に挑戦していた公認観光ガイドの実技試験の本場中、バスがティパレアリ県との県境にさしかかったそのとたん…。「ティパレアリと言えば…」と思わずこの歌をマイクで歌ってしまったのでした。
一緒に試験に臨んでいた仲間たちは「日本人のナオコがティパレアリを歌ったぜ!」と拍手喝采で大盛り上がり、試験官もニヤニヤ。そのおかげかどうかは分かりませんが無事に試験に通り、今に至るわけです。(笑)
「ダニーボーイ」がデリー/ロンドンデリーに昔から伝わる土地のメロディだったのとは違い、この歌には作者がいます。
1912年、ジャック・ジャッジ(Jack Judge, 1878 - 1938)なる人物が作詞作曲し、第一次大戦中に軍歌として愛唱された歌。ジャッジ自身はバーミンガム近くの出身のイギリス人でアイルランドには来たことはありませんでしたが、彼の祖父母がティパレアリ県出身でした。祖父母、両親が会話の中で「ティパレアリ」と口にするのを聞いて、リズム感のある地名の響きが気に入ったのかも。
その後の調査によりハリー・ウィリアムズ(Harry Williams)というイギリス人により編曲されたことがわかり、現在はこの2人が作者とされています。(作曲はウィリアムズが単独で行ったとの説もあり)
イギリス生まれの歌ではありますが、アイルランドからの志願兵により第一次大戦の戦場に広められたようです。
1914年8月、大戦が始まって間もない頃、アメリカのデイリー・メイル社の特派員ジョージ・カノック(George Curnock)がイタリア、ボローニャでアイルランド兵士たちがこの歌を歌っているのを耳にします。
「コノート第2突撃部隊の一団が、深いアイリッシュ・ボイスで朗々と歌いながら通り過ぎていった。その歌は妙に哀愁を帯びた調子で、私が一度も聞いたことのないものだった」とレポートしています。この一団は戦前はティパレアリに駐屯していた部隊だったとのことです。
※曲の発祥には諸説ありますが、2003年に私が参照した
County Tipperary Historical Society(HPの該当箇所がもはや探せず)の記述をおもに参照しました。Wikipediaの説明も興味深いです→
遥かなティペラリーカノックのレポートがきっかけとなり、1914年の終わりまでにミリオン・セラーとなったこの歌は、その後も軍歌、行進曲として人々に記憶されていきます。カナダでは現在もパトリシア王女カナダ軽騎兵連隊の行進曲として使用されているのだとか。
そしてアイルランド人、とくにティパレアリ出身者にとっては、望郷の念をかき立てる歌として歌い継がれてきました。

第一次世界大戦中の英国で発行された楽譜のカバー(
遥かなティペラリーより転載)
1912年の楽譜によると、歌詞は3番までありますが、よく知られているのは繰り返しのこの部分。(日本語は上記Wikipedia参照)
It’s a long way to Tipperary, It’s long way to go,
It’s a long way to Tipperary, To the sweetest girl I know!
Goodbye Piccadilly! Farewell Leicester Square!
It’s long, long way to Tipperary,
But my heart’s right there!
遥かなティペラリー、遥か彼方よ。
遥かなティペラリー、愛しのあの子の居るところ!
さよなら、ピカデリー、さらば、レスター広場。
ティペラリーまでの道のりはひどく長い。
けれど心はいつもそこに。
1914年に最初にレコーディングされたオリジナルと思われる音源(John McCormack - It's A Long Way To Tipperary)
歌詞を全部ちゃんと聞くと、少々コミカルなラブ・ソングです。ロンドンに出てきたアイルランドの田舎者パディが、恋人モリーにせがまれて手紙を書きます。「結婚してくれないならはっきりそう言え、綴りの間違いはペンのせい、俺を責めるな!」
するとモリーから返事が来て、「私と結婚したがっている人がほかにいるの、ストランドやピカデリー(ロンドンにある地名)なんて放って帰って来て!」と。そこで故郷ティパレアリへの道は遠いけど、想いは愛しのモリーのところへ…というわけです。
また、当時ロンドンのレスター広場に「ティパレアリ・メアリーズ」という軍人行き付けの娼館があり、歌の歌詞はそれに引っ掛けたものとも言われています。兵士たちが戦場で替え歌を作って歌ったそうですが、
上述のWikipedia「遥かなティペラリー」によると、その後も宮沢賢治が、そして函館ラ・サール学園も替え歌で歌い継いでいるのだとか!
最近はあまりないですが、10年くらい前までは、ツアーでティパレアリを通るとお客様から「ティパレアリの歌」と関係があるの?とよく聞かれたものです。「子供の頃、父がお風呂の中でよく歌っていたティパレアリはここだったのね」なんておっしゃられた方も。バスの中でCDをかけるとご年配のお客様が懐かしがってくださいました。
1914年11月、この曲が最初にレコーディングされた時に歌ったのは、アイルランド人のテノール歌手ジョン・マコーマック(John McCormack, 1884 - 1945)でした。ご紹介した上述のYouTubeがそれです。
マコーマックは1930年代に日本でコンサートをしたと聞いたことがありますので、その時にリバイバルしたことも考えられます。
ところでアイルランドは第一次世界大戦では、イギリスの自治領であったカナダ同様、イギリス、フランスの連合国軍に義勇兵を送っています。
アンの次男ウォルターは「もしドイツが勝てばどういうことになるか知ってるかい?カナダはドイツの植民地になるんだよ」(第4章)と言っていますが、これは作者モンゴメリ自身が
日記(1914年8月5日の日記)の中で杞憂していることでもあります。
長男ジェムは「僕らは子獅子だ―一族の喧嘩ということになれば、必死で戦わなくてはならないよ」(第3章)とイギリスへの忠誠心を表していますが、アイルランドの若者たちが戦地へ赴いた理由は少々違っていて、長きに渡り圧政を強いられてきた憎き支配国イギリスから自治を勝ち得るための妥協でした。
当時のアイルランドは独立の気運が高まっており、大戦でイギリスに協力して戦功が認められれば自治が早く与えらるとのプロパガンダが横行していました。反英と愛国の複雑な想いを胸に、成人男性の4割に当たる約27万人が義勇兵として戦地に赴きますが、アイルランド兵は前線に送られることも多く、イギリスよりも多い5万人近い命が失われました。

私が毎日のように散歩やジョギングに出かける近所のウォー・メモリアル・ガーデンズ(Irish National War Memorial Gardens, Dublin 8)は第一世界大戦で命を捧げたアイルランド兵の慰霊庭園です。過去ブログ参照→
戦没者慰霊庭園とバラ園1916年4月26日、モンゴメリは
日記に「毎週必ず、新しい、驚くべき、信じがたい戦争のニュースが入ってくる。今週のものは、アイルランドで起こったシン・フェインの暴動だ。」と記しています。
これがのちにイースター蜂起と呼ばれる、大戦中の1916年4月24日にダブリンで起こったイギリスに反旗を翻した武装蜂起です。6日間の攻防戦の後、イギリス軍に捕らえられた蜂起の首謀者たちは無残にも処刑され、人々の反英感情が激しく高まり国内は独立戦闘状態に。
そんな中、ヨーロッパの激戦地から命拾いして帰還した若者たちは、アンの息子たちのように英雄として称えられることはなく、敵国イギリスに協力して戦ったとして「裏切り者」のレッテルを張られてしまいます。本当は祖国の独立を有利に運ぶためだったのに、そのことは忘れられて。
その後も長い間、身内が大戦に参加したことを口に出すのもはばかられるような状況だったと言います。90年代以降イギリスとの政治的和解が進む中で、半世紀ももっと経ってやっと名誉回復がはかられました。
『リラ』を読むと戦争とは若者の青春を奪い、心も体も深く傷つけられることがリアルに実感されますが、アイルランドではさらに複雑で残酷な傷跡が残されたのでした。
2003年に『アン』の会の通信にこの話を寄稿した時は、イラク戦争の真っただ中でした。
当時の私は、アンの次男ウォルターが死の前夜、戦場でリラに宛てて書いた手紙の中のこの一節に胸を打たれた…と書いています。今回新型コロナ禍で再読し、奇しくも目に留まったのはまったく同じ箇所でした。
危険に瀕しているのは僕の愛する海から生まれた小さな島の運命ばかりではない。カナダや英国の運命ばかりでもない。人類の運命なのだ。そのためにわれわれは闘っているのだ。(第23章)全世界を巻き込むこのウィルスは、戦争とはまた違ったかたちで人類の運命に何らかの警笛を鳴らしているように思えてなりません。
長い文章を読んでくださり、ありがとうございました。
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コメント
sima-s
2020/05/31 URL 編集
naokoguide
こういう不条理や無理解と闘ってきたんですよね、アイルランド人は。戦没者慰霊庭園も建設したにも関わらず、世論に邪魔されてオープンするのに何十年もかかってしまって…。
長い文章を読んでくださり、コメントもいただけて嬉しかったです。
2020/05/31 URL 編集