ダブリン市街地の
ガーディナー通り(Gardiner Street)は、17~18世紀のジョージアン・ハウス(貴族の街屋敷)を利用した、リーゾナブルなB&Bやゲストハウスが多く集まる場所。
長距離バスの発着所Busaras(中央バスステーション)や、コノリー駅に近く、スーツケースをゴロゴロ引きずった旅行客やバックパッカーでいつもにぎわっています。
このガーディナー通りのゲストハウス、
The Townhouseは、19世紀終わりに日本に帰化した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン・1850-1904)が少年時代に住んだ家!

看板をよ~く見ると、
ドアのところに八雲の後姿が。

アングロ・アイリッシュの父とギリシャ人の母との間に生まれた八雲の本名は、
パトリック(←アイルランドの守護聖人の名前)・ラフカディオ(←生まれ故郷のギリシャの島の名)・ハーン。幼少期に両親が離婚したため、父方の大叔母にあたるブレナン夫人により、ダブリンで育てられました。
現在、
ダブリン市内には八雲が住んだ家が3件残っており、The Townhouseはそのうち唯一プライベートな住居ではないもの。
宿泊するのもよし(快適なゲストハウスです)、
レセプション左側にある廊下に展示してある八雲の写真等を見せてもらうもよし。
19歳でアメリカに移民し、名が知られるようになったのはそれ以降でしたので、「19世紀に日本人になったアイルランド人がいた!」ということは、アイルランドではほとんど知られていませんでした。
2000年の生誕150周年、2004年の没後100年にさまざまな催しが行われたのをきっかけに、アイルランドでも少~しずつ、八雲の名が語られるようになってきたところです。
小泉八雲といえば、
『耳なし芳一』や『むじな』など、子供の頃読んだこわ~い話を思い出しますよね~。
八雲が迷信や神話がうごめく19世紀のアイルランドで育ったことを考えると、
日本の怪談収集や、ニューオーリンズのクレオール口承文芸に関心を示したのは、どうもその辺りに発端があるようです。
みなしご状態の上、育ての親であるブレナン夫人は厳しい人で、さらに右目を失明するなど辛いことの多かったアイルランド時代ですが、やはり故郷は故郷。
私が時折、
アイルランドの田舎の景色に70年代の日本を想うように、八雲も日本の田畑や山や海を見てアイルランドの影を感じることがあったのだろうな~と思ったりするのです。
唐突ですが、5年ほど前、
八雲の曾孫さんにあたる小泉凡さんにスパゲティーを作っていただきご馳走になったことがあります。(前後を説明すると長くなるので、また別の機会に。)
今日、The Townhouseの前を通ったときに、ふとそんなことをなつかしく思い出したのでした~。
八雲が日本に帰化したことを書いた記念碑
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コメント
菅原和士
判読できるお写真をメール送信で戴けるのでしょうか?
2010/03/03 URL 編集
naokoguide
古い記事にコメントくださり、ありがとうございます。コメントに気がつかずに、ご返信遅れてごめんなさい。
オリジナルのサイズの写真が手元に残っているかどうか、探してみます。そうでなければ、近くに行ったときにでも、大きく写してきてお送りしましょうか?
まずは写真探してみて、あればお送りしますね。
2010/03/10 URL 編集
菅原和士
実は、私は専門書(工学英語など)の著作をしており、その中に、時々、コーヒーブレークのような意味で、[MEMO]を入れています。八雲のお話を[MEMO]に入れようかと考えていたわけです。
もしございましたら、私へメール添付下さい。写真の提供者のお名前は本に記載します。私の著作物は私の氏名からご覧できます。
2010/04/03 URL 編集
naokoguide
メールで写真送りました。
お役に立てれば幸いです。
2010/04/12 URL 編集