
父が生まれ育った八代海(不知火海とも呼ぶそうです)に面した港の町
今回、天草へ行くにあたって、父の育った町を見てみたい…という思いがありました。
そこへ行けば父にゆかりのある人がいるかもしれず、親戚のひとりにでも会えるかもしれない。いや、たとえそういう人に行き当たらずとも、私たちと同じ名字の人がたくさんいたり、同じ系統の顔立ちの人が歩いていたりするのかも?
父の17回忌にあたる節目の年に、そんなことが実現すればいいな、と思っていました。
私たち家族が最後に天草を訪れたのは、かれこれ30数年前のこと。私はほんの2歳か3歳で、写真を見て知ってはいるものの、直接的な記憶はありません。
天草の祖父母は亡くなっていますし、父の兄弟姉妹にあたる伯父・伯母も、みな他県に住んでいます。母の話では、父の実家の家も祖父母の死後に処分されたらしいとのこと。
昔とはすっかり様子が違っているかもしれないけれど、せっかく天草まで来たのだから、やはりその町へ立ち寄ってみましょう~と、あまり手がかりもないままに、とにかく行ってみたのでした。
小さな港に隣接するその町は、車がやっとすれ違うくらいの細いメインストリートが一本。
花がいっぱいの小学校があって、小さな病院があって、店が数件あって…。軒を連ねる民家の間からは海がすけて見えます。
ゆっくりと車を走らせていくうちに、母の記憶の引き出しが開かれ始めた様子。どうやら昔とそれほど変わっていないようです。「こんな坂をのぼったところに家があったような…」とか、「あの浜に引き潮の時に泳いで行ったような…」などど母が言うのを聞いて、私もなんだか懐かしいような気持ちに。
ぽかぽかした春の陽気も手伝ってか、「父の思い出探し」気分にすっかり盛り上がり始めた私たち。誰かに声をかけてみようよ!ということになり、たまたまそこにいたお年寄りに祖父母のことを尋ねてみると、すぐ近くに同じ名字の鮮魚店があるから、そこで聞いてみてはどうかとのことでした。

鮮魚店の戸を叩く私と母。実はこの店へ来る前に間違えて別の店へ行ってしまったりもしたのですが、突然やって来て何十年も前のことを聞く私たちをいぶかりもせず、皆さんとても親切にしてくださいました
店の奥から出てきてくださったご主人に祖父母の名を告げると、同じ名字は単なる偶然だけど、祖父母のことは知っていることのこと。父の実家だった家もすぐ近所で、今はゆかりのない人が住んでいるが、家は残っていると教えてくださいました。
私の父は高校進学と同時に他県へ出てしまっているので、まさか父のことまでは知らないだろうな~と思いながらも、父の名をそろりと言ってみると、なんとこちらがそれ以上話す前に、「ああ、テツオさんは早くお亡くなりになったそうで…」と父の消息までご存知でした。
そして、父よりはずっと歳がお若いであろうそのご主人ですが、少年時代の父のことも覚えておられ、テツオさんは野球をやっていて、キャッチャーをしていた、自分の叔父が監督をしていた…などと、まるで昨日の話でもするかのようにすらすらと語られるので、びっくり。

港で釣りをする人。天草ではこんなふうに釣りをしている人をたくさん見かけました。私の父も釣り名人で、会社の釣り大会に釣竿を持たずに出場し、糸一本で釣りまくって優勝した…という笑えるエピソードがあります(笑)。私たちも子供の頃、近所の川へよく連れて行ってもらったものです
さらに、「今この町でテツオさんに関係ある人は、○○さんくらいかな~」とご主人の口からふいに出てきた名前は、なんと父の叔母に当たる人!
その名を聞いた瞬間、「天草」と書かれたのオレンジ色のポンカンの詰まったダンボール箱が、私の脳裏に現れました。祖母が亡くなった後は、その大叔母が代わって毎年ポンカンを送ってくれていたので、私の中では「大叔母の名前=天草のおいしいポンカン」…だったのです(笑)。
その大叔母は、父のことを実の息子のように可愛がっていた人なのですが、いつの頃からかポンカンも来なくなり、父が亡くなって年月が経つごとに縁遠くなっていたのでした。大叔母が存命で、先ほど私たちが通り過ぎてきた町の病院にいると聞いて、なんだか信じられないような思いでした。
※長くなりますので、続きは後日アップしますね!
- 関連記事
-
コメント
アンナム
2011/04/10 URL 編集
naokoguide
2011/04/12 URL 編集